雪とともに - 「匹見再発見」 62
ここ数年、匹見では雪のある正月を迎えている。以前は当たり前の景色だったのだろうが、近年では雪のまったくない年も珍しくない。匹見の冬を体験するようになって15年。その間にも、肌で感じる冬の、雪の様子が変わってきているようにも思う。
「奥地」集落の移転や匹見からの人の流出をうながしたきっかけのひとつといわれる「三八豪雪」。当時を知る人の話を聞いたり本を読んだりすると、その頃の雪との格闘がいかに大変だったかわかる。
それ以来の大雪だという人もいた「平成18年豪雪」。何日も降り続く雪はたしかに不気味で、雪かきの手伝いに行った家では独り暮らしのお年寄りが不安な顔を見せた。以前とはまた違う意味で、雪は重圧になっているのかもしれない。
圧雪になった道路を慎重に運転し、益田の市街地に出かけてみると、雪は気配もなく蝶々が飛んでいたりして拍子抜けすることがある。これだけ違うと、それぞれに別の種類の時間が流れているような気がしてくる。
長年匹見で暮らしてきた人たちには、雪に苦労しながらの冬の過ごし方があるだろう。山への猟だったり、春を迎える準備であったり。その人なりの楽しみも必要。
太平洋岸の温暖な土地で育った私は、不謹慎かもしれないが、雪を見ると少しワクワクする。新雪をぎうぎうと踏んで山を歩き、小さな冬鳥たちに出会い、木の冬芽がふくらんでいるのを見たりするのはひそかな楽しみだ。
本格的な雪はこれからかもしれないが、年が明け、日が少しずつ長くなり、どことなく春が近づいている気配を感じることも。そうなってくると、冬が終わってしまうのを惜しむような気分になるのが不思議だ。
写真:つかの間、晴れた朝
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2010年1月10日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
氷の花 - 「匹見再発見」 61

晩秋、よく晴れた日の朝は、草木が朝露をたっぷりたくわえる。小さな水滴で飾られたクモの巣が日を受け、あちこちで輝いている。
そんな景色が、布団を抜け出すのも惜しいように冷えた朝、うっすら白い一面の霜に変わる。雪とは異なる、キンと張りつめたような白だ。
山道を歩くと、所々にできた霜柱がざくざく音を立てる。草木の葉についた無数の氷の粒に日が当たり、一瞬白さを増して溶け、水蒸気がゆらっと立ちのぼる。
まだ日が当たらない所に、立ち枯れている草むら。アキチョウジというシソ科の植物のようだ。よく見ると、茎を裂き押し出されるように、薄い氷の膜が広がっている。季節はずれに咲いた、ガラス細工のような花。
シソ科の植物の茎は空洞になっていて、気温が下がると中の水分が凍り、茎を突き破って霜柱のように成長していく。この現象がよく見られるものには、「シモバシラ」という名前がつけられた種もある。いったん茎が裂けてしまえばそのシーズンにはもう見られない、期間限定、初冬の花だ。
そして初雪の朝。あたりをうっすらと白くするだけで、本格的な積雪はもう少し先。それでも、地面は白一色。背の高い草が、天然のドライフラワーとなって、雪に描かれた素朴な絵のよう。
見上げるともう青空が顔を出し、木の枝についた雪の華がぼたりぼたりと落ち始めている。気温が上がり、ひとときの白い別世界もいったん終わり。冬の朝は早起きが得かもしれない。
写真:立ち枯れの茎に咲いた「氷の花」
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年12月20日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
木地師 - 「匹見再発見」 60

材料の木材が積まれ、さまざまな道具や機械が置かれた奥で、木工用ろくろが回っている。円状に木取りをされた材に刃物(ろくろかんな)が当てられると、勢いよく木くずが飛び散る。たちまち、きれいな曲面をもった「形」が現れてくる。
大まかな形ではあるが、椀や皿、盆、ボウルやカップが、木の中から生まれてくるかのような瞬間だ。
「森の器」の愛称で知られるこれらの木工品はさまざまな樹種で作られ、木目や色、重さなど、ひとつとして同じものはない。匹見の豊かな山林資源を活かそうと、二十数年前に始められた事業だ。
私事だが、十数年前、Iターンを考えていた時に匹見の名を教えてくれたのが、本や展示会で見かけたこの器だった。私にとって、「森の器」は「匹見」の代名詞だった。
もともと匹見には、ろくろを使った木工品作りの文化があった。木地師と呼ばれる人たちがもたらしたものだ。近世、木地屋文書で特権を主張し、木地の材料となる良木をもとめて各地を自由に渡り歩いた人たち。里とは一線を画す山中に十数年単位で暮らし、木を倒し、ろくろを回した。その生活跡には、今でも残された墓石などを見ることができる。
そんな、山とともに暮らし、対話しながら伝えられてきた技を、現在に、後世に引き継いでいこうという思いも、森の器には込められている。
山が、少しずつその姿を変えながらも時代を超えてそこにあるように、代々引き継がれていく人の知恵や技。そんなところに、匹見の魅力がやっぱりある。
写真:「木材」が、みるみる「器」になっていく
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年12月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
割元庄屋美濃地家(下) - 「匹見再発見」 59
長屋門をくぐるとガッショウ(合掌)造りという母屋が眼前にどっしりと構える。屋根には棟を押さえるホテが11本あり、通常の民家より多い。また70~80cmの厚い茅ぶきを目の当たりにすると、まさしく当家が割元庄屋であったことをうかがわせてくれる。
左手の大戸から入ると25坪(約82.6平方m)の土間。吹き抜けになっている屋根裏を見上げると、梁、桁が縦横数段に組み上げられ、中でもウシビキ梁などは直径3尺(約1m)もあり、それを支える大黒柱も直径1尺1寸(約30cm)のヒノキで、何から何まで巨大だ。
土間から上間方向に目をやると、前側はオモテ、ナカノシマ、ザシキとつづき、そこはハレの間取りである。「ハレ」と「ケ」という言い方があるが、「ハレ」とは特別な祭り、冠婚葬祭といった非日常的なことをいい、そのときに使われた間のこと。
つまり、板戸で仕切られた土間に続くオモテは神棚が設けられた客間。ナカノマは、上客(近世期には代官などの官吏)が正式な入口である式台から上がってあいさつ、面談する間であり、最上の間がザシキである。
したがって、両間のあいだの鴨居には欄間が施されたり、ザシキには天袋や違い棚の床、附書院はもちろん、飾り金具も見られるなど、高い技術の結晶されている。
そして「ケ」というのは、住居ではカッテ、イマ、ネマとかいった普段・日常的に使う間取りをいい、それらは裏側や下手側に設けられているのが普通だった。
当家ではイマ、オク、サキノマなどがそれに当たり、大部分を壁で仕切られた前側のハレの各間とは異なり、簡潔で質素な造りになっている。一部異なった部分もみられるが、こうしたハレの間が3間、ケの間が3間、合わせて6間取りというのは普通の民家では見ることはできない。当家が士分級の庄屋であったことが間取りからもかいま見える。
以上、機能面から見てきたが、当家は美観的意匠にも優れている。私は特に下手の妻側から見るのが好きだ。
写真:美濃地屋敷の土間から座敷方向を見る
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年11月22 日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
割元庄屋美濃地家(上) - 「匹見再発見」 58

地元の民具を展示する民具資料倉、休憩室に改造した牛馬舎と養蚕室以外の母屋や、米倉、勘場(かんば)などといった大部分は、154年前に改築された当時のままで、貴重な建築物である。
庄屋とは、江戸時代に数村の納税や治安、その他の事務を取り仕切った村の長のことで、身分はあくまでも農民。
ただ一口に庄屋といっても、流れ頂戴(ちょうだい)、独札、名披露(なひろう)、苗字御免(みょうじごめん)といった格式差がある。
当家は江戸後期には帯刀(刀を携えること)はもちろん、苗字御免を仰(おお)せ付かり、数家の庄屋を配下におく割元庄屋となり、末期には匹見組庄屋の上席を務める一方、,郷土格という士分(武士)級の待遇を与えられた。
先祖は出雲国尼子氏に仕えていたといわれ、戦国期に益田の美濃地に移り住んで、その任地をもって苗字としたものという。江戸初期には津茂銅山の支配人として数代、そして道川に来地したのは藤井氏の踏鞴(たたら)の支配人として10代の久忠の時だったらしい。その後藤井氏が衰退していく中で、逆に上・下道川両村の有望家へと成長していった。
山をひかえた背戸側には高く積まれた石垣が築かれ、南東向きの屋敷取りも申し分ない。もとは三方には溝が流れていて、板・土塀、正面側には勘場(かんば)、米倉などが敷地内を仕切るように建ち並んで長屋門を形成している。くに彫刻が施されて壮麗(そうれい)な門に、まずは圧倒されるのである。
次回は、当家の建物内部の様子について紹介する。
写真:南側から望んだ美濃地屋敷の全景
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年11月8日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
トチもち - 「匹見再発見」 57

山菜採り、きのこ狩り、山や川での猟(漁)、ハチミツ採り、さらに「衣」や「住」にもさまざまな木や草が素材として利用されている。先人から受け継がれた「技術」に各人の「経験」や「知恵」が加わり、山暮らしならではの豊かな生活が営まれてきた。
なかでも、木の実を採集し、加工や貯蔵をしていた痕跡は縄文遺跡からもみつかっており、長い利用の歴史を刻んでいる。とくに、トチノキの実のような強いアクのあるものを食用にする技術は、積み重ねられた知恵と根気のたまものだ。
トチの実は、ほんの少し口に入れただけでも舌がしびれるようなアクの強さだが、クマやイノシシは好んで食べるらしい。栃もちを作る人たちは「クマと競争で」この実を拾うとのこと。
拾ってきた実は水に浸して虫出しをし、ひと月ほどの間天日干しされる。その後、トチヘシという木製の道具を使って堅い皮をむき、生木の灰に熱湯をかけたものにつける。5日間、1日に一回はかきまぜて渋皮をとる。
さらに5日間、今度は谷川などで水にさらし、やはり毎日かきまぜる。これでもアクがぬけなければ、灰での処理と水さらしを繰り返す。
これを蒸しあがったもち米の上にのせて蒸らした後、もちをつく。少々苦味のあるもちを、ぜんざいなどにして食べるのはこたえられない。
文化遺産に登録してもいいくらいの「技術」であり、「味」だと思う。
写真:トチの実
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年10月18日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
わら蛇神事 - 「匹見再発見」 56
神社・寺院などの信仰の建築物には、よく龍や蛇を装飾化したものを見かける。沼などに棲み、しかもたけだけしく飛行するという想像上の龍は信仰の対象として納得できるが、グロテスクな蛇についてはふにおちない。
しかし、蛇は縄文の古い時代から信仰の対象物であったらしい。脱皮を繰り返す様から不死の動物としてとらえられたり、またクネクネと歩む姿が水流に似ていることから、水神の化身ともとらえられたりした。水といえば、水田耕作にとっては不可欠である一方で、洪水をひきおこす恐ろしい存在でもある。後者の事例は、さしずめ出雲神話の八岐大蛇といったところであろうか。
匹見町内石の田原大元神社では、長さ約6m余りの稲わらで蛇、あるいは龍形に模したものを作り、背後の古椿に巻きつける「わら蛇神事」という祭りが伝えられている。もとは八朔(はっさく)に行われていたものだが、今では新暦の9月2日に行われている。
八朔といえば穂掛け行事、あるいは二百十日という台風シーズンを迎えて、諸方では風祭りが行われていることなどからみて、豊作頼みの感が強い。こういった「水」との関係から、龍蛇(りゅうだ)形のものを祭り上げて柔和させて災害をさけ、豊穣を祈ったのだろう。
こうした意義ある神事も、以前は田原地区の3世帯に、本地から他方に転出した1世帯が加わった計4世帯だけで守られ、その後、一世帯が減ってほそぼそと伝承していた。
しかし数年前からは、津和野町日原から古く伝承されたという故事にちなみ、日原郷土研究会の協力を得て伝承されていると聞き安堵(あんど)する。
祖先たちが残してくれた、この貴重な文化遺産が、いつまでも続かんことを祈りたいものである。
写真:ご神木に巻きつけられたわら蛇
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年10月4日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
秋の気配 - 「匹見再発見」 55
近ごろ、朝晩はずいぶん冷え込んできた。雨が降るたびに、少しずつ空気の質も変わってきているような気がする。春の雨には、温かさを含んだやわらかみが感じられるが、秋の雨はどこか冷たく、さびしさが混じっている。
その代わりと言っては何だが、よく晴れた秋の日の気持ちよさは格別だ。朝もやの向こうから日が差し始め、深い色の青空が広がってくる。そんな休日、カメラ片手に匹見の「小さい秋」を探しにでかけてみる。
空気が澄んでいるせいか、日差しの強さがまともに伝わってくる。が、日陰に入ると途端に風はひんやり。じっとしていると肌寒いくらいだ。
きれいに熟れた稲が刈りとられている田。そばを通ると、乾草のようなワラのにおい。赤トンボが、名残惜しげに飛んでいる。何だか懐かしいこの雰囲気。ちょうど、子どもの頃に遠足で見た色、かいだにおい、感じた風を思い出すようだ。
山際にはクリやドングリが落ち、ところによってはトチの実を見つけることも。ヤマボウシやアケビ、サルナシにフユイチゴなど、見つけたらそのまま口に入れたいような実もたくさん。
夏の間少し息をひそめていた、草の花の種類も増えてきている。秋によく目立つ花は、シソ科、キク科、タデ科などが多い気がする。その他にも、ゲンノショウコ、ツルリンドウ、ツリフネソウ、それにススキなどなど。どれも、春の花のやさしい鮮やかさとは異なる、さっぱりといさぎのよい渋みを感じさせる色だ。
山の緑は少し勢いをなくしかけている。遠くから、神楽の笛や太鼓の音が聞こえてくる。庭の片隅でコオロギが鳴いている。
秋が静かに忍び降りてきている。
写真:フデリンドウの花
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年9月20日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
天狗 - 「匹見再発見」 54
匹見には天狗瀧(てんぐだき)、また「堀越天狗」といった天狗にちなむ地名や、天狗の休み場だという「天狗松」、あるいは「グイン松」といった巨木・奇形な樹木などが見られる。
天狗は顔は赤くて高い鼻をもち、背に翼があって飛行自在で、手には羽団扇(はうちわ)をもつ。服装は山伏姿が一般的だが、中には僧侶の場合もあるといわれ、深山の岩場または松の木などの樹上にいるという想像上の怪物だ。
「天狗風」「天狗礫(つぶて)」「釣天狗」など、諺(ことわざ)ではマイナスイメージが強いが、これは魔界に棲むということから生じたものであろう。
しかし山郷の人たちにとって、かつては山神に近い存在であったらしく、例えば三葛には大神ヶ嶽(あるいは立岩ともいう)から申し降ろしたという「狗印社」という祠(ほこら)がある。
こうした天狗の原型は、どうやら山伏の姿やその行動にあるようだ。つまり山界の岩場を登ったり火の中を歩いたり、刀(は)渡りをしたりと超自然的なことは、まさしく天狗像そのもといってよいだろう。古書や伝承には「山伏が天狗になった」とか、その逆の記述もある。いずれにしても日本固有の山岳宗教や、また修験道との密接なかかわりの中から登場したものであろう。
切り立った岩場などを当地では、タキとかダケとかいっているが、古くはそのような場所は地方山伏の修業場であったらしく、それが天狗伝説を生むきっかけになった。原初的には、そういった岩山や巨木などには神がこもるといった、自然崇拝から発したものであったことも頭においておかなければならない。
写真:そびえ立つ立岩。天狗伝説が残る
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年9月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
米作り - 「匹見再発見」 53

いつの間にか夏が終わってしまいそうな今年、不順な天候にも関わらず、ふと気がつくと田の稲にはすでに穂が出て、頭を垂れ始めているものも。
山間地にありながら、この田の広がる風景は、匹見がとても豊かな土地であることを 印象づける。急峻な山や谷に囲まれ、田が一枚もないような地方もあるなか、この辺り(西中国山地)は小さな谷の奥まで田がつくられている。山中の「こんな所にまで」というような場所にも棚田の跡が見られ、米づくりへの執念のようなものさえ感じる。
匹見を訪れる人は、出された地元の米が美味しいといって喜んでくれる。寒暖の差が大きい気候、豊かな山がつくる水、さらに苦労しながらそれを活かす作り手の力によるものだろう。
最近はだんだん少なくなったが、刈り取られた稲はハゼに掛けられ、脱穀がすんだ後の藁も大切にされた。縄、むしろ、わらじや雪靴などさまざまな生活道具に利用された。牛などの飼料や肥料などには今でも重宝されている。注連縄にも欠かせない。
また、現在ではほとんど見かけなくなったが、田畑の実りを守る「カカシ」にも、藁が使われていた。田にカカシが立つ景色を、昔の思い出にもつ人も多いようだ。
そんな懐かしい山村の原風景を楽しもうと、9月5日、匹見地区で「カカシ祭り」が行われる。手作りカカシも募集中だ。くわしくは匹見上地区振興センター(電話0856-56-1144)まで。
写真:すがすがしい匹見の夏のたんぼ
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年8月23日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。