fc2ブログ
2009.12.21

氷の花 - 「匹見再発見」 61

氷の花  とうとう雪がやってきた。今年はぐっと冷え込むような日が少なくて、外での仕事も苦にならず、「暖冬」予報が当たりかなと思っていたが。季節はやはり、それなりの顔をして巡ってくる。
 晩秋、よく晴れた日の朝は、草木が朝露をたっぷりたくわえる。小さな水滴で飾られたクモの巣が日を受け、あちこちで輝いている。
 そんな景色が、布団を抜け出すのも惜しいように冷えた朝、うっすら白い一面の霜に変わる。雪とは異なる、キンと張りつめたような白だ。
 山道を歩くと、所々にできた霜柱がざくざく音を立てる。草木の葉についた無数の氷の粒に日が当たり、一瞬白さを増して溶け、水蒸気がゆらっと立ちのぼる。
 まだ日が当たらない所に、立ち枯れている草むら。アキチョウジというシソ科の植物のようだ。よく見ると、茎を裂き押し出されるように、薄い氷の膜が広がっている。季節はずれに咲いた、ガラス細工のような花。
 シソ科の植物の茎は空洞になっていて、気温が下がると中の水分が凍り、茎を突き破って霜柱のように成長していく。この現象がよく見られるものには、「シモバシラ」という名前がつけられた種もある。いったん茎が裂けてしまえばそのシーズンにはもう見られない、期間限定、初冬の花だ。
 そして初雪の朝。あたりをうっすらと白くするだけで、本格的な積雪はもう少し先。それでも、地面は白一色。背の高い草が、天然のドライフラワーとなって、雪に描かれた素朴な絵のよう。
 見上げるともう青空が顔を出し、木の枝についた雪の華がぼたりぼたりと落ち始めている。気温が上がり、ひとときの白い別世界もいったん終わり。冬の朝は早起きが得かもしれない。

 

写真:立ち枯れの茎に咲いた「氷の花」

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年12月20日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


スポンサーサイト



2009.12.07

木地師 - 「匹見再発見」 60

作業中  この時季、ひきみ森の器工芸組合の工房を訪ねると、まず、薪ストーブの心地よい暖かさが出迎えてくれる。そして、木のにおい。
 材料の木材が積まれ、さまざまな道具や機械が置かれた奥で、木工用ろくろが回っている。円状に木取りをされた材に刃物(ろくろかんな)が当てられると、勢いよく木くずが飛び散る。たちまち、きれいな曲面をもった「形」が現れてくる。
 大まかな形ではあるが、椀や皿、盆、ボウルやカップが、木の中から生まれてくるかのような瞬間だ。
 「森の器」の愛称で知られるこれらの木工品はさまざまな樹種で作られ、木目や色、重さなど、ひとつとして同じものはない。匹見の豊かな山林資源を活かそうと、二十数年前に始められた事業だ。
 私事だが、十数年前、Iターンを考えていた時に匹見の名を教えてくれたのが、本や展示会で見かけたこの器だった。私にとって、「森の器」は「匹見」の代名詞だった。
 もともと匹見には、ろくろを使った木工品作りの文化があった。木地師と呼ばれる人たちがもたらしたものだ。近世、木地屋文書で特権を主張し、木地の材料となる良木をもとめて各地を自由に渡り歩いた人たち。里とは一線を画す山中に十数年単位で暮らし、木を倒し、ろくろを回した。その生活跡には、今でも残された墓石などを見ることができる。
 そんな、山とともに暮らし、対話しながら伝えられてきた技を、現在に、後世に引き継いでいこうという思いも、森の器には込められている。
 山が、少しずつその姿を変えながらも時代を超えてそこにあるように、代々引き継がれていく人の知恵や技。そんなところに、匹見の魅力がやっぱりある。

 

写真:「木材」が、みるみる「器」になっていく

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年12月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。