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2009.07.27

宮本常一先生 - 「匹見再発見」 52

宮本常一が泊まった民家  「旅する巨人」といわれた民俗学界の巨星である宮本常一先生にお会いしたのは確か、1977年4月だった。その折は「この方があの有名な先生なのか」といった程度の認識しかなかった。      
 ただその後、先生が1939年11月に匹見を訪れ、その時に得た資料を基にした出版が残されていることを知った。それは『宮本常一著作集』(全50巻)のうちの『中国山地民俗採訪録』(第23巻)と『村里を行く』(第25巻)だ。
 前巻には「島根県美濃郡上村(匹見町)三葛」という項目で、20ページにわたって主に齋藤修一氏(川森家)から聞き書きしたものが載り、今となっては得ることができない貴重な民俗誌が事細かく記されている。  
 例えば私の母の事で恐縮だが、実は地区の人たちが名前を「益子」と呼んでいたので、それが名前だと思い続けていた。しかし戸籍では「スエ」とあるので母に聞くと、益子は結婚時につけられたもので、したがって以降はそのように呼ばれていたのだという。
 このようなことは匹見では今も見られる一例であるが、そういった珍しい風習がどのように行われていたかなども記されていて興味深い。ただ付録として道川臼木谷の秀浦氏からも記録をとったらしく、中には混同しているものが二、三点見られる事は残念。
 後巻のものは6ページをさいて、広島の横川から広見を経て三葛、そこで石工、木材業などに携わる10あまりの人たちと宿泊をともにした様子を「三葛の宿」と項題してエッセー風にまとめられている。
 それは1200軒を超える民家などに泊まりながら民俗学をフィールドワークとした先生の姿勢が読み取られ、前巻とは趣きを異にした別の魅力が心に迫ってくる。 
 匹見にかかわられた人たちが残された功績をきちんと押さえることも再発見につながる。それだけにあの時、先生にあいさつをしながら名刺を交わしたのみだけだったことが、今となっては悔やまれてならない。

 

写真:宮本常一氏が泊まった益田市匹見町三葛の民家(当時は宿)

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2009年7月26日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


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2009.07.06

草刈り - 「匹見再発見」 51

ネジバナ  梅雨の時季を迎え、山の緑はぐっと深みを加え安定してきた。田の稲はしっかりと株を張り、畑に植えられた夏野菜の苗も、日に日に存在感を増している。
 そして、同時に勢力をぐんぐん広げているのが「草」だ。以前は、どの地域にも「刈り場」があり、刈った草を肥料や家畜の飼料にした。また、カヤ(ススキ)は屋根を葺くための材料にも大量に必要とされた。
 しかし、今、その多くは「雑草」と呼ばれ、やっかいもの扱いされがちだ。田畑の作物を覆い隠そうとし、道路の両脇から生い茂り、人や車の通行を妨げる。山の造林地では木の苗を見失うほどだし、放っておけば庭もジャングルに。
 だから、夏は草との格闘の季節。庭の雑草は小さいうちにこまめに抜く。田や畑に入り、腰をかがめて草を抜いたり鎌を使ったりするのは、なかなかの重労働だろう。
 太陽が照りつける炎天下、山での下草刈り作業もきつい仕事だ。今は刈払機を使うのが普通だが、広い造林地を鎌で刈っていた頃は、さぞかし大変だったことだろう。
 ただ、そんな少々気が重い「草との格闘」も、作業を終えればすがすがしい気分をもたらしてくれる。薮から救い出されたスギやヒノキの苗。害虫防除の意味も込めて、きれいにされた田の畔。刈った草の匂いが、気分のよさをさらに高める。
 この時季には、集落ごとに道路の草刈りも行われる。快適な生活に必要なことでもあるし、作業後の「ご苦労さま会」は集落の貴重な懇親の場にもなっている。
 また最近、人手不足気味の小さな集落には、大学生を始めとしたボランティアの手助けもある。そんな人たちとの交流もあれば、草刈りもひとつの楽しみかもしれない。

 

写真:ネジバナ。手入れされた畔には背の低い草花が育つ

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年7月5日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


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