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2010.03.22

石垣築地 - 「匹見再発見」 67

小原地区の石垣築地  石垣の「棚田」といえば、近隣では吉賀町柿木の大井谷が有名だが、匹見を訪れた人たちからも「石垣築地が美しい」とよく聞かされる。しかしその石垣築地も、非効率ということから、1968年から始められた圃場整備事業によって半分以上が土手築地となり、祖先たちが傾斜地を少しでも無駄にすまいと、階段状に築いた苦労の証も半減してしまった。
 しかも田圃1枚ごとに、それに似合って付けられていた地名までも消え去ったのである。地名は「焼けない資料」といわれる貴重な遺産。地番式となったことで消滅してしまったのは残念だ。
 ただ圃場整備が行われていない石谷地区では、立地に即応した田・畑の石垣と実生活とが微妙にマッチし、美しい山村風景を醸し出していて、これは原風景といってもよい大切な遺産だ。規模からいうと、匹見では小広瀬地区に勝るものはないが、集落が崩壊に近く荒廃化してしまったのが惜しまれる。
 このような石垣築地は、大きく分けて「野づら積み」そして高度な「切り込みハギ」「打ち込みハギ」などがあるといわれる。匹見では大半は「野づら積み」といわれるものだ。
 その「野づら積み」にも、広島北西部(旧山県郡)の石垣師は、上端部を平らに仕上げるものの、ほかは石を斜めに積み上げていくという技法のものらしい。山口の周東部(南部岩国)のものは、石の向きはあまり考えずに積み上げた後、すき間ができると小石を埋め込んでいくという方法だという。
 匹見のものを見ると、大半は前者の山県郡式なのだが、「牛蒡(ごぼう)積み」であったり、屋敷取りのものは「切り込みハギ」であったりと、他の様式も見られる。
 石にもいろいろあり、川近くのものは円礫のもの、傾斜地のものには角礫のものが使われている。掘ればいくらでも石が出土するという土地柄だけに、材料に不自由するということはなかっただろう。
 高く幾重にも積み上げられた石垣を見ると、今さらながら祖先たちの苦労が胸に迫り、すぐには立ち去り難いものがある。

 

写真:紙祖小原地区に残る石垣築地

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2010年3月21日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。

※この回をもって、本連載は終了いたしました。長い間、ご愛読いただきありがとうございました。


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2010.03.08

春の川 - 「匹見再発見」 66

きらめく春の川  3月には、匹見がいよいよ動き出す、1年の始まりの時季というイメージがある。冬にくらべると晴れ間の出る日が増え、空気がぐっとゆるんでくる。
 木々が芽をふくらませているのだろう、山がほんのり赤っぽくなった。目覚めの早い草や木が小さな花を咲かせ、鳥たちのまだたどたどしいさえずりも聞こえてくる。
 田畑に緑が増え、作業する人たちの姿も目につく。日が照り、体を動かせば少し汗ばむような暖かさが心地よい。
 そして、雪解けの水もあるのだろう、やや水量の多いの流れに陽光が反射してきらめく様子は、何だか気分がうきうきするような、私の好きな春の景色だ。
 3月1日には渓流釣りが解禁。まだずいぶん冷たいだろう流れに立つ人たちを、ちらほらと見かけるようになった。アユ解禁の時季には卯の花(ウツギ)がよく似合ったが、いま辺を彩るのはネコヤナギだ。
 十数年前、匹見に越して来て間もなく渓流釣りを習った。魚はあんまり釣れなかったが、人の気配がない谷で竿を出し流れを見つめていると、の一部になったようで気持ちよかった。
 このところ、釣りにはすっかりご無沙汰しているが、春のにうきうきしてしまうのは、釣りに夢中だったあの頃の気分がよみがえるからかも知れない。
 連なる山なみは、よく大地の背骨に例えられる。また、その谷々から湧き出る小さな流れが集まってめぐっていく様子は、精気を循環させる血管なのだと。
 いま、まさに匹見の野や山、には活力がみなぎり、これまで繰り返してきたのと同じように春を迎え、新しい1年が始まろうとしている。

 

写真:きらめく春の川

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2010年3月7日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2010.02.22

持三郎の御座石 - 「匹見再発見」 65

持三郎の巨岩  澄川特三郎(もっさぶろう)という地名がある。ここに直径3~5m、高さ約1.5mの巨岩が横たわり、さらにその上に直径1.5~2mの石が載り、何か意味ありそうな様形をただよわせる。
 この岩頭上に、古くは八幡神が祀(まつ)られていたと伝えられていることから、まさしくこの巨石は神にかかわる御座石(みくらいし)といえるものである。
 社祠などは鎌倉期(1192~1333)の大洪水の時に流失し、ご神体は、鎌手の大谷・大浜の間の三田瀬沖に漂着し、これを両浦の者たちが奪いあったと伝えられている。
 伝説はさらに続き、その後ご神体は三田瀬に祀られたものの「久城に移りたい」とのご神託があり、櫛代賀姫(くしろかひめ)神社の境内に明星山八幡宮として祀られたという。今も行われている同神社の「相撲(角力)」「針拾い」という両神事は、その故事に基づくものらしい。
 神事は夏祭り(小祓祭)といって9月15日、御幸場(みゆきば)という浜場へ巡幸し、そこで行われる。
 まず獅子舞があり、ご神体を奪い争ったという両浦の2人が相撲で競い合う「相撲神事」がある。1勝1敗1引き分けという神前相撲だ。
 それが終わると1人の老婆が斎場内を必死になって、なくしたという針を捜し回るが見つけることができない。それを見かねた神職が、最後には神針を授けるというのが「針拾い神事」だ。
 一説にはその老婆こそ、両浦のもめごとの仲裁に入った特三郎の者だというのである。こうした因縁から、かつては本地からもご巡幸には参列していたという話も伝わっている。
 いずれにしても遠く隔てた海辺の地に、本地に絡んだ起源説で語られていることに驚き、貴重な両神事が永く伝承されていることに頭が下がる。

 

写真:巨岩が横たわる澄川持三郎

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2010年2月21日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2010.02.08

小さな隣人 - 「匹見再発見」 64

ヒヨドリ  今年もとうとう、暦の上では春を迎えた。が、「春は名のみの」で、匹見の空はまた雪をちらつかせている。
 暖かい地方からは、次々に花の便りが届けられるが、こちらではウメどころかロウバイがようやくほころんだところ。スイセンもまだだ。今咲いても、雪がまたやってくるのを知っているのかもしれない。
 家のまわりで、ジョウビタキが鳴いている。大陸から渡って来る、橙色をした冬鳥だ。秋、「ヒッヒッ、カッカッカッ」という声を聞くと、ああ今年も来てくれたと、何だかホッとしてしまう。
 しばらく見かけなかったのだが、他の場所でおいしいものを食べつくしてしまったのだろうか、誰にも食べられず残っていたナンテンの実を目当てに来ているようだ。
 春目前、鳥にとっては食べ物を探すのに苦労する時季。これまで人気のなかった庭のえさ台のカキにも、ヒヨドリやシロハラが姿を見せる。静かな冬の窓の外に、ちらちらと動く影があるのは何だかうれしい。
 さまざまな鳥がさえずり生命力に満ちた初夏とは異なり、冬の山は一見眠っているよう。しかし、木々が葉を落としたこの季節は、バードウォッチングにうってつけだ。繁殖期でないせいか警戒心も比較的うすく、双眼鏡など使わなくても、その可愛らしさを楽しめることが多い。
 小さなエナガやシジュウカラなどの群れが、枝から枝へ渡りながらにぎやかに通り過ぎていく。冬枯れのなかに鮮やかな空色はルリビタキ。脇腹の橙がおしゃれ。黒い冠羽に黄色い顔、地面で何か探しているのはミヤマホオジロだ。
 鳥も人も、長い冬を何とかやり過ごし、一気にやってくる春を待ちわびている。

 

写真:梅が咲くようになればヒヨドリもひと安心か

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2010年2月7日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2010.01.25

消え去っていく蓑具 - 「匹見再発見」 63

蓑とハバキ  「蓑(みの)笠つけて」と 「案山子(かかし)」の歌にあるように、蓑は昭和20年代までは野良仕事などに雨、雪を防ぐための外套(がいとう)として、必需品だった。
 匹見では「コウラミノ」といって、コウラで編まれるものが主流であった。ここでいうコウラというのは、オクノカンスゲという35cmほどになる植物をいう。
 9月前に収穫して10日ばかり乾燥させ、そして束ねて泥水に浸す。10月末、表面の柔らかな緑色がとれて白くなったところで洗って乾かし、カセという蓑編み台を使って編んだ。
 材料のオクノカンスゲは、町内にコウラ谷という地名があることからみてもわかるように、比較的自生していることなどから昭和10年代には1千枚も編まれたといい、そのほかハバキ、キャハンもつくられた。
 このような蓑については記・紀のスサノオノミコトの神話に登場するなど古く、また秋田県のナマハゲのように、それを着衣することは異界からの来訪者を意味するという行事・説話も多く伝えられている。
 さて、コウラのほか稲ワラもあるが、手軽く得やすいコウラのものよりは編まれることは少なかった。それは長持ちしないという短所にあったらしい。ヒネリ編みといわれて下方から仕立ていくもので、もち米の稲ワラが最適という。
 私はそのヒネリ編みしたものを持っていて、とくに裏側からみる高度な技術に圧倒される。それは昭和57年ごろの落合地区の斉藤米吉氏(故人)の手によるもので、その技巧美に感嘆し、無理やり所望したものだ。
 こうしたものは今では化学製品一辺倒となって見捨てられていったが、先人たちが身近にあるものを活用し、知恵と技術で作り上げられてきたものを目にすると、そこには温かな優しさの結晶をみることができる。私にとっては大切な一品だ。

 

写真:裏側からみた稲ワラ蓑とハバキ

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2010年1月24日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2010.01.11

雪とともに - 「匹見再発見」 62

雪の朝  ここ数年、匹見では雪のある正月を迎えている。以前は当たり前の景色だったのだろうが、近年では雪のまったくない年も珍しくない。匹見の冬を体験するようになって15年。その間にも、肌で感じる冬の、雪の様子が変わってきているようにも思う。
 「奥地」集落の移転や匹見からの人の流出をうながしたきっかけのひとつといわれる「三八豪雪」。当時を知る人の話を聞いたり本を読んだりすると、その頃の雪との格闘がいかに大変だったかわかる。
 それ以来の大雪だという人もいた「平成18年豪雪」。何日も降り続く雪はたしかに不気味で、雪かきの手伝いに行った家では独り暮らしのお年寄りが不安な顔を見せた。以前とはまた違う意味で、雪は重圧になっているのかもしれない。
 圧雪になった道路を慎重に運転し、益田の市街地に出かけてみると、雪は気配もなく蝶々が飛んでいたりして拍子抜けすることがある。これだけ違うと、それぞれに別の種類の時間が流れているような気がしてくる。
 長年匹見で暮らしてきた人たちには、雪に苦労しながらの冬の過ごし方があるだろう。山への猟だったり、春を迎える準備であったり。その人なりの楽しみも必要。
 太平洋岸の温暖な土地で育った私は、不謹慎かもしれないが、雪を見ると少しワクワクする。新雪をぎうぎうと踏んで山を歩き、小さな冬鳥たちに出会い、木の冬芽がふくらんでいるのを見たりするのはひそかな楽しみだ。
 本格的な雪はこれからかもしれないが、年が明け、日が少しずつ長くなり、どことなく春が近づいている気配を感じることも。そうなってくると、冬が終わってしまうのを惜しむような気分になるのが不思議だ。

 

写真:つかの間、晴れた朝

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2010年1月10日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2009.12.21

氷の花 - 「匹見再発見」 61

氷の花  とうとう雪がやってきた。今年はぐっと冷え込むような日が少なくて、外での仕事も苦にならず、「暖冬」予報が当たりかなと思っていたが。季節はやはり、それなりの顔をして巡ってくる。
 晩秋、よく晴れた日の朝は、草木が朝露をたっぷりたくわえる。小さな水滴で飾られたクモの巣が日を受け、あちこちで輝いている。
 そんな景色が、布団を抜け出すのも惜しいように冷えた朝、うっすら白い一面の霜に変わる。雪とは異なる、キンと張りつめたような白だ。
 山道を歩くと、所々にできた霜柱がざくざく音を立てる。草木の葉についた無数の氷の粒に日が当たり、一瞬白さを増して溶け、水蒸気がゆらっと立ちのぼる。
 まだ日が当たらない所に、立ち枯れている草むら。アキチョウジというシソ科の植物のようだ。よく見ると、茎を裂き押し出されるように、薄い氷の膜が広がっている。季節はずれに咲いた、ガラス細工のような花。
 シソ科の植物の茎は空洞になっていて、気温が下がると中の水分が凍り、茎を突き破って霜柱のように成長していく。この現象がよく見られるものには、「シモバシラ」という名前がつけられた種もある。いったん茎が裂けてしまえばそのシーズンにはもう見られない、期間限定、初冬の花だ。
 そして初雪の朝。あたりをうっすらと白くするだけで、本格的な積雪はもう少し先。それでも、地面は白一色。背の高い草が、天然のドライフラワーとなって、雪に描かれた素朴な絵のよう。
 見上げるともう青空が顔を出し、木の枝についた雪の華がぼたりぼたりと落ち始めている。気温が上がり、ひとときの白い別世界もいったん終わり。冬の朝は早起きが得かもしれない。

 

写真:立ち枯れの茎に咲いた「氷の花」

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年12月20日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2009.12.07

木地師 - 「匹見再発見」 60

作業中  この時季、ひきみ森の器工芸組合の工房を訪ねると、まず、薪ストーブの心地よい暖かさが出迎えてくれる。そして、木のにおい。
 材料の木材が積まれ、さまざまな道具や機械が置かれた奥で、木工用ろくろが回っている。円状に木取りをされた材に刃物(ろくろかんな)が当てられると、勢いよく木くずが飛び散る。たちまち、きれいな曲面をもった「形」が現れてくる。
 大まかな形ではあるが、椀や皿、盆、ボウルやカップが、木の中から生まれてくるかのような瞬間だ。
 「森の器」の愛称で知られるこれらの木工品はさまざまな樹種で作られ、木目や色、重さなど、ひとつとして同じものはない。匹見の豊かな山林資源を活かそうと、二十数年前に始められた事業だ。
 私事だが、十数年前、Iターンを考えていた時に匹見の名を教えてくれたのが、本や展示会で見かけたこの器だった。私にとって、「森の器」は「匹見」の代名詞だった。
 もともと匹見には、ろくろを使った木工品作りの文化があった。木地師と呼ばれる人たちがもたらしたものだ。近世、木地屋文書で特権を主張し、木地の材料となる良木をもとめて各地を自由に渡り歩いた人たち。里とは一線を画す山中に十数年単位で暮らし、木を倒し、ろくろを回した。その生活跡には、今でも残された墓石などを見ることができる。
 そんな、山とともに暮らし、対話しながら伝えられてきた技を、現在に、後世に引き継いでいこうという思いも、森の器には込められている。
 山が、少しずつその姿を変えながらも時代を超えてそこにあるように、代々引き継がれていく人の知恵や技。そんなところに、匹見の魅力がやっぱりある。

 

写真:「木材」が、みるみる「器」になっていく

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年12月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2009.11.23

割元庄屋美濃地家(下) - 「匹見再発見」 59

土間から座敷方向を見る 長屋門をくぐるとガッショウ(合掌)造りという母屋が眼前にどっしりと構える。屋根には棟を押さえるホテが11本あり、通常の民家より多い。また70~80cmの厚い茅ぶきを目の当たりにすると、まさしく当家が割元庄屋であったことをうかがわせてくれる。
 左手の大戸から入ると25坪(約82.6平方m)の土間。吹き抜けになっている屋根裏を見上げると、梁、桁が縦横数段に組み上げられ、中でもウシビキ梁などは直径3尺(約1m)もあり、それを支える大黒柱も直径1尺1寸(約30cm)のヒノキで、何から何まで巨大だ。
 土間から上間方向に目をやると、前側はオモテ、ナカノシマ、ザシキとつづき、そこはハレの間取りである。「ハレ」と「ケ」という言い方があるが、「ハレ」とは特別な祭り、冠婚葬祭といった非日常的なことをいい、そのときに使われた間のこと。
 つまり、板戸で仕切られた土間に続くオモテは神棚が設けられた客間。ナカノマは、上客(近世期には代官などの官吏)が正式な入口である式台から上がってあいさつ、面談する間であり、最上の間がザシキである。
 したがって、両間のあいだの鴨居には欄間が施されたり、ザシキには天袋や違い棚の床、附書院はもちろん、飾り金具も見られるなど、高い技術の結晶されている。
 そして「ケ」というのは、住居ではカッテ、イマ、ネマとかいった普段・日常的に使う間取りをいい、それらは裏側や下手側に設けられているのが普通だった。
 当家ではイマ、オク、サキノマなどがそれに当たり、大部分を壁で仕切られた前側のハレの各間とは異なり、簡潔で質素な造りになっている。一部異なった部分もみられるが、こうしたハレの間が3間、ケの間が3間、合わせて6間取りというのは普通の民家では見ることはできない。当家が士分級の庄屋であったことが間取りからもかいま見える。
 以上、機能面から見てきたが、当家は美観的意匠にも優れている。私は特に下手の妻側から見るのが好きだ。

 

写真:美濃地屋敷の土間から座敷方向を見る

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2009年11月22 日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2009.11.09

割元庄屋美濃地家(上) - 「匹見再発見」 58

美濃地屋敷  匹見町で紹介しておかなければならないものに道川の旧割元庄屋美濃地屋敷がある。オープン(2005年4月)から数年間はは約1万人の来場者があったが、現在は7,8千人前後と減少している。それでも表、裏などの匹見峡、やすらぎの湯に次ぐ匹見の観光スポットだ。
 地元の民具を展示する民具資料倉、休憩室に改造した牛馬舎と養蚕室以外の母屋や、米倉、勘場(かんば)などといった大部分は、154年前に改築された当時のままで、貴重な建築物である。
 庄屋とは、江戸時代に数村の納税や治安、その他の事務を取り仕切った村の長のことで、身分はあくまでも農民。
 ただ一口に庄屋といっても、流れ頂戴(ちょうだい)、独札、名披露(なひろう)、苗字御免(みょうじごめん)といった格式差がある。
 当家は江戸後期には帯刀(刀を携えること)はもちろん、苗字御免を仰(おお)せ付かり、数家の庄屋を配下におく割元庄屋となり、末期には匹見組庄屋の上席を務める一方、,郷土格という士分(武士)級の待遇を与えられた。
  先祖は出雲国尼子氏に仕えていたといわれ、戦国期に益田の美濃地に移り住んで、その任地をもって苗字としたものという。江戸初期には津茂銅山の支配人として数代、そして道川に来地したのは藤井氏の踏鞴(たたら)の支配人として10代の久忠の時だったらしい。その後藤井氏が衰退していく中で、逆に上・下道川両村の有望家へと成長していった。
 山をひかえた背戸側には高く積まれた石垣が築かれ、南東向きの屋敷取りも申し分ない。もとは三方には溝が流れていて、板・土塀、正面側には勘場(かんば)、米倉などが敷地内を仕切るように建ち並んで長屋門を形成している。くに彫刻が施されて壮麗(そうれい)な門に、まずは圧倒されるのである。
 次回は、当家の建物内部の様子について紹介する。

 

写真:南側から望んだ美濃地屋敷の全景

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2009年11月8日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。