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2009.10.19

トチもち - 「匹見再発見」 57

トチの実  縄文時代から変わらない、などと書くと、失礼かもしれない。しかし、山林面積が全体の97%という匹見では、山を舞台にその恵みをいただき、またそれを十分に活かすという「山と対話しながらの暮らし」が連綿と続けられてきた。
 山菜採り、きのこ狩り、山や川での猟(漁)、ハチミツ採り、さらに「衣」や「住」にもさまざまな木や草が素材として利用されている。先人から受け継がれた「技術」に各人の「経験」や「知恵」が加わり、山暮らしならではの豊かな生活が営まれてきた。
 なかでも、木の実を採集し、加工や貯蔵をしていた痕跡は縄文遺跡からもみつかっており、長い利用の歴史を刻んでいる。とくに、トチノキの実のような強いアクのあるものを用にする技術は、積み重ねられた知恵と根気のたまものだ。
 トチの実は、ほんの少し口に入れただけでも舌がしびれるようなアクの強さだが、クマやイノシシは好んでべるらしい。栃もちを作る人たちは「クマと競争で」この実を拾うとのこと。
 拾ってきた実は水に浸して虫出しをし、ひと月ほどの間天日干しされる。その後、トチヘシという木製の道具を使って堅い皮をむき、生木の灰に熱湯をかけたものにつける。5日間、1日に一回はかきまぜて渋皮をとる。
 さらに5日間、今度は谷川などで水にさらし、やはり毎日かきまぜる。これでもアクがぬけなければ、灰での処理と水さらしを繰り返す。
 これを蒸しあがったもち米の上にのせて蒸らした後、もちをつく。少々苦味のあるもちを、ぜんざいなどにしてべるのはこたえられない。
 文化遺産に登録してもいいくらいの「技術」であり、「味」だと思う。

 

写真:トチの実

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年10月18日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。



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2009.04.06

ワサビ漬け - 「匹見再発見」 46

ワサビの花  今年の花芽を使った、ワサビのしょう油漬けをいただいた。口に入れるとすがすがしい香りが広がると同時に、涙を誘うくらいの強い辛みが鼻をつきぬける。花芽の感がまたいい。
 このワサビ漬けは、公民館主催の行事で地域の子どもたちが作ったもの。匹見の伝統料理を、三葛地区の「おかあさん」たちに教わりながら作ってべる。
 ワサビといえば昔からの匹見の特産品だが、子どもたちにとっては、それほど身近なものではないかもしれない。調理中に立ち上る辛みが目にしみて、「もう、やれん」と音をあげた子もいたとか。
 ワサビ漬けが辛くなるかどうかは、「手によって違う」のだそう。調理する人それぞれの、手順やコツがあるのだろう。実際、地域によって、またそれぞれの家によって、作り方に違いがあり、それが地域の味、家の味につながっている。
 ここでは、前述の子どもたちが三葛で教わったレシピを紹介しよう。
 まず、採ってきた花芽をよく洗いザルに入れる。茎を漬けるときには、適当な大きさに切っておく。また冬から春にかけて出る新芽(ガニ芽)は、柔らかく辛みも強い。
 次に、たっぷりのお湯を材料にかけ、ザルを前後に強く素早く振る。「ワサビを怒らせて辛みを出す」という人も。この時に目鼻を刺激する辛みが立ち上って来る。
 しょう油、みりん、酒をあらかじめ混ぜておいたものに漬け、できあがり。空気に触れると「辛みが逃げる」ので、密閉容器に入れておく。三日後ぐらいには味も馴染み、辛みも増してべごろとなる。
 ご飯に添えてよし、晩酌の肴によし、バラエティ豊かな匹見伝統の味を楽しみたい。

 

写真:種を採るために残されたワサビの花

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2009年4月5日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2008.10.20

広葉樹林 - 「匹見再発見」 35

山の幸  匹見の山地が色づく秋になると、キノコ類やヤマイモ、そのムカゴ・ヤマグリ・アケビなど、森の恵みがきわだつ。
 とくに、匹見ではトチ餅の材になるトチの実の収穫期でもある。カゴを背負って山に入る人の姿も見受けられる。
 糧難であった戦時中にはもち米はわずかで、ほとんどはトチの実が主体。中にはドングリを団子にしてべたこともあったという。いずれもアクが強く、それを製造して口にすることは容易なことではない。明治期には「ガシの飯米(はんまい)」といって、トチの実を俵に入れて軒につるし、飢饉(ききん)に備えていたともいわれる。
 狩猟採集を基調とした縄文時代には、そういった山の幸に恵まれた匹見地域は格好のエリアだった。そのことは、縄文遺跡が五十ヶ所余り、弥生期のものと複合したものも加えると、六十数ヶ所もあることが証明している。
 石ヶ坪・ヨレ遺跡では、貯蔵穴(ちょぞうけつ)という木の実を保存した跡が出土しており、ヨレ遺跡ではトチの実の炭化物が見られた。同遺跡ではシカの骨も発見されるなど、当時の暮らしがそういった山の幸に支えられていたことがわかる。
 縄文人は木の実などの植物性のもの、また魚類、イノシシといった動物性のものをしていた。そのカロリー比率は、植物性のものが二倍以上だったことが分かっている。
 匹見が、12,000年~2,300年前の縄文時代を途切れることなく存続していたことや、その遺跡の多さから「縄文銀座」と呼ぶ専門家もいる。その背景には、匹見が山の幸豊かな落葉広葉樹林の山に囲まれていたということが、大きな要因だったのだろう。
 そんな縄文の世界を想いながら、紅葉に染まる匹見を散策してみるのもいい。

 
写真:縄文人の生活を支えたトチの実、ドングリ、ヤマイモなどの山の幸

(文・写真 /渡辺友千代)

この記事は、2008年10月19日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2008.10.06

ミツバチの蜜 - 「匹見再発見」 34

081005  日本在来のニホンミツバチの巣を採る現場に、立ち合わせてもらった。動きを麻痺させるための煙を吹きかけているとはいえ、やっぱり何匹ものハチが周りを飛び交っている。
 網つき帽をかぶり、ゴムかっぱに手袋で身を固め、蜜をたっぷり蓄えた巣に包丁を入れる。小さな六角形の部屋が並んだ巣は板状で、その「板」が縦になって何枚も並んでいる。その板をひとつずつ切り取っていく。
 巣をすべて取らずに半分ほど残しておけば、ハチたちが巣を復元する。ただし、寒い時季になると蜜が固まって採取しにくくなるとのこと。
 桶に入れられた巣からは、すでにトロリとした蜜がこぼれ始めている。ニホンミツバチの蜜は「百花蜜」とも呼ばれ、数ヶ月をかけてたくさんの種類の花から集められたもの。さっぱりとしているが、どこか複雑な味わい。
 物資の乏しい時期には貴重な甘味だったろう。餅につけたり、そば粉などをかいてべたりしたという。蜂蜜は縄文の時代から人に利用されてきたというから、縄文銀座と呼ばれる匹見での利用の歴史も相当に長い。
 現在でも、山際の家の裏などに、木の洞を使った巣箱がいくつも置かれている光景を見かける。こうして、人の暮らしの中に溶けこむことで、ニホンミツバチの数も安定してきたという。
 しかし今、ハチ飼いの技術の継承は途絶えがち。クマによる被害なども増え、ただでさえ貴重な蜜はますます身近なものでなくなりつつある。
 一度味わったら忘れられない、豊かな野山に咲く花から少しずつ集められた自然の恵み。もうしばらく楽しむことができるといいのだが・・・。

 

写真:蜜がたっぷり詰まったニホンミツバチの巣

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2008年10月5日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2008.08.03

夏野菜 - 「匹見再発見」 30

おすそ分けの夏野菜  山懐に抱かれ、標高もやや高いとはいえ、匹見の夏もやっぱり暑い。今年は雨が少ないが、日光をさんさんと浴びて、作物は順調に育っている。
 キュウリにナス、トマトやピーマン、トウモロコシと、「これぞ夏」を感じさせてくれる野菜が、どこの畑にもにぎやか。これら定番の他にも、ウリやシシトウ、ジャガイモに枝豆(大豆)、ニガウリ、スイカ、ニンニクなどなど、夏を健康に乗り切るために欠かせない顔ぶれが並ぶ。
 街暮らしではスーパーの店先でしか見られないようなカゴにいっぱいの野菜が、ここでは、畑から台所へ新鮮なまま直行。その自給率はかなり高いだろうが、わが家のような「消費専門」の世帯にも、ありがたいおすそ分けが回ってくる。
 「よかったら、もらってくれんかね」という、もったいないような言葉といっしょにいただくみずみずしい野菜たち。
 子どもは、トマトでもキュウリでも、丸ごとかじるのが好み。キュウリやウリ、ナスなどの塩もみは、もうその素材の味だけでいくらでもべられる。
 三杯酢でつくる、キュウリなますは、当地ではおなじみのメニュー。毎日三必ずべるという方もいるとか。「河狩り」の際に、河原でべる鮎なますは格別だ。
 河狩りといえば、毎年恒例の「川ガキ講座」でいただく石焼きは絶品。熱した石や鉄板の上で、鮎うるかとナスを味噌などで味つけして焼く。ジュワッと染み出す野菜の旨みを満喫できる。
 先日、仕事で草刈りをしていた際、近所の方から「暑いでしょう」とトマトの差し入れがあった。真っ赤に完熟した実は、この上ない「匹見のごちそう」だった。

 

写真:おすそ分けの夏野菜

(文・写真 /田代信行)


この記事は、2008年8月2日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2008.05.11

山菜の季節 - 「匹見再発見」 24

野山で採れた山の幸 早春、雪が消えるのを待ちきれないように顔を出すフキノトウ。山菜の季節は、すでにここから始まっている。その苦味は、たしかに春の到来を感じさせるが、本格的に山菜を楽しめるのは、山が新緑にうっすら染まる時季からだ。
 フキノトウに続く春の味覚といえば、やはり「うでぢか」。匹見ではハナウドのことを指し、新芽を広げたところを採る。ごまあえや白あえの独特の風味は絶品で、ファンも多い。
 天ぷら材料の代表はタラの芽。ウコギ科タラノキの新芽を大事にかき採ってくる。同じウコギ科のボカ(コシアブラ)の芽は、最近人気が出てきて、人によっては、こちらの方が香りがよいと好んでべる。
 木の芽では、以前はリョウブの若い葉をご飯に炊き込んでいたとのことだが、こちらは最近、ほとんど見かけない。
 おなじみの山菜といえば、ワラビやゼンマイ、フキ、ウド、タケノコなどいろいろあるが、いずれもひと手間、ふた手間の下ごしらえが必要だ。ことに、ゼンマイなどは干したりもんだりを繰り返し、口に入るまでには何日もかかる。
 また、これらのよく利用される山菜というのは、乾燥や塩漬けなど保存の方法もよく知られ、夏から秋、ときには翌年の冬に料理となって出されることもある。
 山菜は大切な保存であり、換金のための産物という面も持ち合わせていた。が、結局、山菜採りの魅力は、そのこと自体が「楽しい」ということだろう。寒さの緩んだ春の野山をゆくうれしさ、気持ちよさ。
 一部の有毒なものに気をつければ、多くの植物が用となる。今まであまり目を向けていなかったもののなかに、隠れた宝がふんだんにある。

 

写真:野山で採れた山の幸


(文・写真 /田代信行・田代祐子)


この記事は、2008年5月10日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2007.12.24

埋め飯 - 「匹見再発見」 15

薬味にセリをのせた埋め飯 匹見に古くから伝わる郷土料理に「埋め飯」がある。
 具材は、ささがきしたゴボウ、ニンジン、そして里芋、シイタケ、豆腐、これに山鳥(またはウサギ)などの肉が加わる。味付けは、しょうゆで、濃いめにする。
 仕上がったら、具と煮汁を椀(わん)に注ぎ入れ、五分めに張る。そこに炊きたての飯を盛り付けるが、欠かせないのがワサビ。すり下ろしたワサビを椀の中に封じ込めるようにしのばせるのがコツで、素朴な味わいを大いに引き立ててくれる。
 飯の上には季節に応じた木の芽、あるいはセリなどの薬味をのせると、一段と欲が増す。
 具と汁を熱々の飯の中に埋めた「埋め飯」。由来は、主役とするワサビを飯に封じ込めたからだとか、具を埋めるように下に張ったから、あるいは客に「粗末なものですが」という遜(へりくだ)った出し方をしたからなど。語源は定かではない。
 地元の山野で簡単に得られる材ばかりで、手の込んだ非日常的な晴れの料理とはいえない。
 実はこの埋め飯、浜田市三隅などの海岸沿いでは、サザエやアワビなど魚介類を加え、ワサビの代用にショウガを添えたという(木村晩翠著『随筆石見物語』)。
 要するに、郷土料理は、その地域、地域にある身近な材を活(い)かしてこそ、真の郷土料理と言える。
 それにしても匹見の埋め飯をべると、強い辛味の中にもどことなく甘味をもった感に、「涙してもやめられぬ匹見のワサビ」を実感する。ぜひ、埋め飯をご賞味いただきたい、と思う。

 

写真:薬味にセリをのせた埋め飯。匹見特産のワサビを封じ込める


(文・写真 / 渡辺友千代)


※この記事は、2007年12月23日付の山陰中央新報掲載分を加筆・訂正して転載したものです。


2007.08.27

河狩り - 「匹見再発見」 6


鮎なますづくりに利用された穴 『河狩り』と書いて『かわがり』と読ます、この言葉をご存じだろうか。西中国山地の山懐に抱かれた匹見では、河狩りという良き伝統が今に受け継がれている。
 その意味は、夏、で泳いだり魚を捕まえて遊んだ後、辺で事をすること。「あす、みんなで河狩りに行こうや」―。親しい友人や知人にこう声を掛け、誘ったりする。
 事抜きなら、ただの「遊び」だが、涼しげに吹き抜ける風に身を委ね、持ち寄った料理に舌鼓を打つところに、ちょっと粋でぜいたくな河狩りの遊び心がある。
 もともと水源の上を祭る河内神社信仰が始まり。で捕った鮎(あゆ)を料理して神に供え、神とともに事をいただき、の豊漁を祈願、あるいは感謝した名残らしい。
 今でこそ、河狩りの主流はバーベキューだが、信仰行事の伝統にのっとった献立は、鮎飯、鮎の塩焼き、鮎の背越(中骨ごとスライスした刺し身)、鮎とキュウリのなます、石焼き(焼いた石の上で、鮎のはらわたに塩や味噌を混ぜたものと一緒に野菜を焼いたもの)など。まさに鮎づくしだ。
 確かに、香魚とも呼ばれ、気品高い鮎は神に供えるのにふさわしい。川魚を貴重な動物性タンパク源とし、山深い里で暮らす人々の信仰心の強さがうかがえる。
 川漁に親しんできた地元の古老によると、若いころはツガニ(モクズガニ)にしろ、イダ(ウグイ)にしろ、今とは比較にならないほど数が多かった。鮎の遡上(そじょう)期にもなると、大群が黒い帯のようになって川を上ってきたそうだ。
 豊かな川の恵みは、感謝の気持ちとともに日常生活の中に、深く染み込んでいた。
 親から子へ、そして―。河狩りは匹見の地で、しっかりと息づく。


写真:鮎なますを作るのに利用していた、川の流れによって自然にできた岩のくぼみ


(文・写真 / 田代祐子・田代信行)


※この記事は、2007年8月26日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2007.06.25

泥落とし - 「匹見再発見」 2


朴の葉に盛りつけた「御供(ごくう)」を再現した 田植えが一段落すると、「泥落とし」という行事が行われる。農家にとっては心休まるとき。耕運機での作業、石垣の草取り、畦(あぜ)の手入れ・・・。4月から5月末まで続く農作業から、いっとき解き放される。
 今のように機械化されていない昭和50年代までは、まだ各集落に「イイ(結に由来)」と呼ばれる組織があり、田植えなどを共同で行った。作業が終わるのは、今より1ヶ月も遅かった。
 「泥落とし」は、6月30日から7月4日までの5日間をいい、ユリ科のサルトリイバラの葉で包んだ柏餅(かしわもち)をつくったりし、仕事を控えたものだ。
 泥落としの日を「シロミテ」と言う。各家ではサンバイ(田の神)さんの依代(よりしろ)である御幣を水口に立て、神前には朴(ほお)の葉=モクレン科の落葉高木、9弁の白い大きな花を咲かせる=に載せた豆入りの、おむすび3個を供えたりした。
 七村地区では五目めし、チシャなます、ゼンマイ、タケノコ、干し大根煮を供えるのが慣習だった。
 なかには「ヨセドロ(寄せ泥)」といって、イイ仲間や地区の人々が集まり、豊穣祈念と親睦(しんぼく)も兼ねて会が行われていた。 
 しかし、今ではイイ組織も崩れ、泥落としは地縁関係者を中心にした温泉旅行などのスタイルに様変わりした。
 朴の葉が使われるのは、ちょうど大ぶりな真っ白な花を咲かせる時季に当たるためである。サンバイ花という言い方もあり、他の地方では開花を同じにする栗、卯の花(ウツギ)をあてがうことも。
 田囃子(たばやし)にそうした花木が登場するのもうなずける。
 朴の葉やサルトリイバラを用いることでも分かるように、泥落としという行事は、自然の営みにあらがうことなく神の存在を信じ、地区の連帯感を紡ぎながら伝わってきた。


(文・写真 / 渡辺友千代)


※この記事は、2007年6月24日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


2007.01.27

狩猟と食文化


070127 ひきみ案内人養成講座の第8回目として、「狩猟と文化」と題した講座を開きました。これまであたたかい日が続いていたにもかかわらず、この日は今にも雪になりそうな寒空。会場になった「いこいの家」は立派な梁をむきだしにしたふるい建物、囲炉裏に炭火をおこしストーブ3台を動員しましたが、しんしんと冷えました。
 しかし、講座では、石原久さんの面白おかしく話される狩猟の方法や山の動物たちにまつわるエピソードにひきこまれ、また、斉藤ソノさんがご自分でまとめられたノートをもとにされたいろいろな行事とそれにまつわる文化についてのお話は、「へぇ~、へぇ~」連続の興味深いものでした。どちらもご自分の体験から得たものはもちろん、古くからの経験をもとにずっと伝えられてきたことも多く、現代の科学的・栄養学的な目から見て「なるほどなぁ」と、改めて「先人の経験と知恵」に感心することしきりでした。
 講座をひととおり終えた後、囲炉裏をかこんでいただいた猪鍋(石原さんの男の料理)もとてもおいしく、和んだ場でサルやタヌキの面白話などがぽんぽん飛び出し、お開きにするのが惜しいような楽しい講座となりました。みなさん、ありがとうございました。(報告:NT)