トチもち - 「匹見再発見」 57

山菜採り、きのこ狩り、山や川での猟(漁)、ハチミツ採り、さらに「衣」や「住」にもさまざまな木や草が素材として利用されている。先人から受け継がれた「技術」に各人の「経験」や「知恵」が加わり、山暮らしならではの豊かな生活が営まれてきた。
なかでも、木の実を採集し、加工や貯蔵をしていた痕跡は縄文遺跡からもみつかっており、長い利用の歴史を刻んでいる。とくに、トチノキの実のような強いアクのあるものを食用にする技術は、積み重ねられた知恵と根気のたまものだ。
トチの実は、ほんの少し口に入れただけでも舌がしびれるようなアクの強さだが、クマやイノシシは好んで食べるらしい。栃もちを作る人たちは「クマと競争で」この実を拾うとのこと。
拾ってきた実は水に浸して虫出しをし、ひと月ほどの間天日干しされる。その後、トチヘシという木製の道具を使って堅い皮をむき、生木の灰に熱湯をかけたものにつける。5日間、1日に一回はかきまぜて渋皮をとる。
さらに5日間、今度は谷川などで水にさらし、やはり毎日かきまぜる。これでもアクがぬけなければ、灰での処理と水さらしを繰り返す。
これを蒸しあがったもち米の上にのせて蒸らした後、もちをつく。少々苦味のあるもちを、ぜんざいなどにして食べるのはこたえられない。
文化遺産に登録してもいいくらいの「技術」であり、「味」だと思う。
写真:トチの実
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年10月18日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
縄文の小宇宙 - 「匹見再発見」 42
狩猟・漁労・採集を生業とした縄文時代。その始まりは1万5000年前にさかのぼるとされ、およそ1万2000年も続いた。その始まりから終わりまでの各時期にわたる遺跡が数多くある匹見の縄文文化回廊を、巡ってみたい。
石ヶ坪遺跡は九州系の縄文土器が多量に発見されたことで有名だ。この土器は並木式・阿高式といわれ、粘土のなかに滑石が混ぜられているのが特徴。土器片を手に陽の光を当ててみるとキラキラと光を反射する。
縄文土器の中でも、ひときわ異彩を放つこの土器を目にした人々の驚きは、どれほどであっただろう。
原産地が判明している場合、その広がりは人の動きを映し出す。滑石の産出地は長崎県西彼杵半島などが知られ、九州との深いつながりを物語っている。
石を集めて組み石状に並べた、配石遺構(墓地)の発見された遺跡が多いことも特色だ。早期の上ノ原遺跡をはじめ、前・中期の中ノ坪遺跡、後・晩期ではヨレ・水田ノ上遺跡などが知られ、その変遷をたどることができる西日本でも稀有な地域だ。
特に水田ノ上遺跡は径80mにも及ぶ西日本最大規模のストーンサークルとされ、森の恵みに感謝する神聖なマツリが盛大に行われたと想像できる。
配石遺跡からは、意図的に破壊されたといわれる土偶や石冠といわれる両性具有の呪術具も発見されている。そこには季節の循環にも通じる、いのちの復活と再生を祈った縄文人たちの精神的宇宙が広がっていたことだろう。
県芸術文化センター「グラントワ」で21日から、「とっとり・しまね発掘速報展」とあわせ、「考古学から語る“いにしえ”の石西」と題した地域展が開催される。
写真:匹見の遺跡から出土した縄文土器類
(文・写真 /渡辺 聡・渡辺友千代)
この記事は、2009年2月8日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
縄文の森 - 「匹見再発見」 41

発見された縄文遺跡の中には、並木式・阿高式といわれる九州系土器が多量に出土した石ヶ坪遺跡、西日本では最大規模の祭礼・墓地群といわれる環状配石遺構が確認された水田ノ上遺跡、トチの実の貯蔵穴や鳥形土製品が検出されたヨレ遺跡など、中国地方の縄文文化を解明するうえで欠かすことのできない遺跡として高く評価されているものも多い。
町内の各所には、発掘調査によって明らかにされた成果を解説した説明板が設置され、地域全体がさながら野外博物館のようだ。
こうした遺跡数の多さと密度の濃さは、それだけ人の住みやすい環境だったことを示す。この地域が平野部とは異なり、落葉広葉樹林帯であり続けたこととも無関係ではないだろう。
狩猟採集を生業とした縄文時代、動物や木の実などの食料資源に恵まれた匹見は、人々を引きつける、魅力あふれる地だった違いない。
現在でもトチの実のアク抜き技術といった山村の生活文化が受け継がれているなど、はるかな時を超えて重なり合いが認められることも特に貴重だといえる。
多くの縄文遺跡の存在や今日に至る生活伝承が物語るように、匹見には自然との関わりあいの中で醸成されてきた人々の営みの歴史がある。それは森に育まれた文化ともいえるもので、私たちの生活のなかに、今なお息づいている。
写真:縄文文化を育んだ落葉広葉樹林
(文・写真 /渡辺 聡・田代信行)
この記事は、2009年1月25日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
広葉樹林 - 「匹見再発見」 35

とくに、匹見ではトチ餅の食材になるトチの実の収穫期でもある。カゴを背負って山に入る人の姿も見受けられる。
食糧難であった戦時中にはもち米はわずかで、ほとんどはトチの実が主体。中にはドングリを団子にして食べたこともあったという。いずれもアクが強く、それを製造して口にすることは容易なことではない。明治期には「ガシの飯米(はんまい)」といって、トチの実を俵に入れて軒につるし、飢饉(ききん)に備えていたともいわれる。
狩猟採集を基調とした縄文時代には、そういった山の幸に恵まれた匹見地域は格好のエリアだった。そのことは、縄文遺跡が五十ヶ所余り、弥生期のものと複合したものも加えると、六十数ヶ所もあることが証明している。
石ヶ坪・ヨレ遺跡では、貯蔵穴(ちょぞうけつ)という木の実を保存した跡が出土しており、ヨレ遺跡ではトチの実の炭化物が見られた。同遺跡ではシカの骨も発見されるなど、当時の暮らしがそういった山の幸に支えられていたことがわかる。
縄文人は木の実などの植物性のもの、また魚類、イノシシといった動物性のものを食していた。そのカロリー比率は、植物性のものが二倍以上だったことが分かっている。
匹見が、12,000年~2,300年前の縄文時代を途切れることなく存続していたことや、その遺跡の多さから「縄文銀座」と呼ぶ専門家もいる。その背景には、匹見が山の幸豊かな落葉広葉樹林の山に囲まれていたということが、大きな要因だったのだろう。
そんな縄文の世界を想いながら、紅葉に染まる匹見を散策してみるのもいい。
写真:縄文人の生活を支えたトチの実、ドングリ、ヤマイモなどの山の幸
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2008年10月19日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
ミツバチの蜜 - 「匹見再発見」 34

網つき帽をかぶり、ゴムかっぱに手袋で身を固め、蜜をたっぷり蓄えた巣に包丁を入れる。小さな六角形の部屋が並んだ巣は板状で、その「板」が縦になって何枚も並んでいる。その板をひとつずつ切り取っていく。
巣をすべて取らずに半分ほど残しておけば、ハチたちが巣を復元する。ただし、寒い時季になると蜜が固まって採取しにくくなるとのこと。
桶に入れられた巣からは、すでにトロリとした蜜がこぼれ始めている。ニホンミツバチの蜜は「百花蜜」とも呼ばれ、数ヶ月をかけてたくさんの種類の花から集められたもの。さっぱりとしているが、どこか複雑な味わい。
物資の乏しい時期には貴重な甘味だったろう。餅につけたり、そば粉などをかいて食べたりしたという。蜂蜜は縄文の時代から人に利用されてきたというから、縄文銀座と呼ばれる匹見での利用の歴史も相当に長い。
現在でも、山際の家の裏などに、木の洞を使った巣箱がいくつも置かれている光景を見かける。こうして、人の暮らしの中に溶けこむことで、ニホンミツバチの数も安定してきたという。
しかし今、ハチ飼いの技術の継承は途絶えがち。クマによる被害なども増え、ただでさえ貴重な蜜はますます身近なものでなくなりつつある。
一度味わったら忘れられない、豊かな野山に咲く花から少しずつ集められた自然の恵み。もうしばらく楽しむことができるといいのだが・・・。
写真:蜜がたっぷり詰まったニホンミツバチの巣
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2008年10月5日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
匹見の原始・古代について

参加者は、萩の会の斉藤ソノさんと渡辺友千代さんの解説を聞きながら、石包丁や勾玉をつくったり、弥生の服をまとって古代米を刈り取ったり、縄文食を味わったりと、現代と古代の食文化・生活様式の違いなどを体験を通して学びました。参加した子どもたちは、「石包丁が予想以上によく切れて驚いた。」、「古代の人は、米を大切にしていたことがよくわかった。」などと、感想を述べていました。(報告:HY)
匹見の自然と文化、歴史

6月24日、第1回講座の「匹見の自然と歴史、文化」には12名の受講者が集まり、それぞれの抱負を胸に渡辺友千代さんの講義を熱心に聴きました。講義は、養成講座全体の基礎となるような内容。匹見の文化を「山と対話しながら育まれたもの」として、都会にすむ人たちにとっては非日常の世界を観光資源として活かしていこう、と提案するものでした。(報告:NT)