石垣築地 - 「匹見再発見」 67

しかも田圃1枚ごとに、それに似合って付けられていた地名までも消え去ったのである。地名は「焼けない資料」といわれる貴重な遺産。地番式となったことで消滅してしまったのは残念だ。
ただ圃場整備が行われていない石谷地区では、立地に即応した田・畑の石垣と実生活とが微妙にマッチし、美しい山村風景を醸し出していて、これは原風景といってもよい大切な遺産だ。規模からいうと、匹見では小広瀬地区に勝るものはないが、集落が崩壊に近く荒廃化してしまったのが惜しまれる。
このような石垣築地は、大きく分けて「野づら積み」そして高度な「切り込みハギ」「打ち込みハギ」などがあるといわれる。匹見では大半は「野づら積み」といわれるものだ。
その「野づら積み」にも、広島北西部(旧山県郡)の石垣師は、上端部を平らに仕上げるものの、ほかは石を斜めに積み上げていくという技法のものらしい。山口の周東部(南部岩国)のものは、石の向きはあまり考えずに積み上げた後、すき間ができると小石を埋め込んでいくという方法だという。
匹見のものを見ると、大半は前者の山県郡式なのだが、「牛蒡(ごぼう)積み」であったり、屋敷取りのものは「切り込みハギ」であったりと、他の様式も見られる。
石にもいろいろあり、川近くのものは円礫のもの、傾斜地のものには角礫のものが使われている。掘ればいくらでも石が出土するという土地柄だけに、材料に不自由するということはなかっただろう。
高く幾重にも積み上げられた石垣を見ると、今さらながら祖先たちの苦労が胸に迫り、すぐには立ち去り難いものがある。
写真:紙祖小原地区に残る石垣築地
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2010年3月21日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
※この回をもって、本連載は終了いたしました。長い間、ご愛読いただきありがとうございました。
持三郎の御座石 - 「匹見再発見」 65

この岩頭上に、古くは八幡神が祀(まつ)られていたと伝えられていることから、まさしくこの巨石は神にかかわる御座石(みくらいし)といえるものである。
社祠などは鎌倉期(1192~1333)の大洪水の時に流失し、ご神体は、鎌手の大谷・大浜の間の三田瀬沖に漂着し、これを両浦の者たちが奪いあったと伝えられている。
伝説はさらに続き、その後ご神体は三田瀬に祀られたものの「久城に移りたい」とのご神託があり、櫛代賀姫(くしろかひめ)神社の境内に明星山八幡宮として祀られたという。今も行われている同神社の「相撲(角力)」「針拾い」という両神事は、その故事に基づくものらしい。
神事は夏祭り(小祓祭)といって9月15日、御幸場(みゆきば)という浜場へ巡幸し、そこで行われる。
まず獅子舞があり、ご神体を奪い争ったという両浦の2人が相撲で競い合う「相撲神事」がある。1勝1敗1引き分けという神前相撲だ。
それが終わると1人の老婆が斎場内を必死になって、なくしたという針を捜し回るが見つけることができない。それを見かねた神職が、最後には神針を授けるというのが「針拾い神事」だ。
一説にはその老婆こそ、両浦のもめごとの仲裁に入った特三郎の者だというのである。こうした因縁から、かつては本地からもご巡幸には参列していたという話も伝わっている。
いずれにしても遠く隔てた海辺の地に、本地に絡んだ起源説で語られていることに驚き、貴重な両神事が永く伝承されていることに頭が下がる。
写真:巨岩が横たわる澄川持三郎
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2010年2月21日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
消え去っていく蓑具 - 「匹見再発見」 63
「蓑(みの)笠つけて」と 「案山子(かかし)」の歌にあるように、蓑は昭和20年代までは野良仕事などに雨、雪を防ぐための外套(がいとう)として、必需品だった。
匹見では「コウラミノ」といって、コウラで編まれるものが主流であった。ここでいうコウラというのは、オクノカンスゲという35cmほどになる植物をいう。
9月前に収穫して10日ばかり乾燥させ、そして束ねて泥水に浸す。10月末、表面の柔らかな緑色がとれて白くなったところで洗って乾かし、カセという蓑編み台を使って編んだ。
材料のオクノカンスゲは、町内にコウラ谷という地名があることからみてもわかるように、比較的自生していることなどから昭和10年代には1千枚も編まれたといい、そのほかハバキ、キャハンもつくられた。
このような蓑については記・紀のスサノオノミコトの神話に登場するなど古く、また秋田県のナマハゲのように、それを着衣することは異界からの来訪者を意味するという行事・説話も多く伝えられている。
さて、コウラのほか稲ワラもあるが、手軽く得やすいコウラのものよりは編まれることは少なかった。それは長持ちしないという短所にあったらしい。ヒネリ編みといわれて下方から仕立ていくもので、もち米の稲ワラが最適という。
私はそのヒネリ編みしたものを持っていて、とくに裏側からみる高度な技術に圧倒される。それは昭和57年ごろの落合地区の斉藤米吉氏(故人)の手によるもので、その技巧美に感嘆し、無理やり所望したものだ。
こうしたものは今では化学製品一辺倒となって見捨てられていったが、先人たちが身近にあるものを活用し、知恵と技術で作り上げられてきたものを目にすると、そこには温かな優しさの結晶をみることができる。私にとっては大切な一品だ。
写真:裏側からみた稲ワラ蓑とハバキ
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2010年1月24日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
木地師 - 「匹見再発見」 60

材料の木材が積まれ、さまざまな道具や機械が置かれた奥で、木工用ろくろが回っている。円状に木取りをされた材に刃物(ろくろかんな)が当てられると、勢いよく木くずが飛び散る。たちまち、きれいな曲面をもった「形」が現れてくる。
大まかな形ではあるが、椀や皿、盆、ボウルやカップが、木の中から生まれてくるかのような瞬間だ。
「森の器」の愛称で知られるこれらの木工品はさまざまな樹種で作られ、木目や色、重さなど、ひとつとして同じものはない。匹見の豊かな山林資源を活かそうと、二十数年前に始められた事業だ。
私事だが、十数年前、Iターンを考えていた時に匹見の名を教えてくれたのが、本や展示会で見かけたこの器だった。私にとって、「森の器」は「匹見」の代名詞だった。
もともと匹見には、ろくろを使った木工品作りの文化があった。木地師と呼ばれる人たちがもたらしたものだ。近世、木地屋文書で特権を主張し、木地の材料となる良木をもとめて各地を自由に渡り歩いた人たち。里とは一線を画す山中に十数年単位で暮らし、木を倒し、ろくろを回した。その生活跡には、今でも残された墓石などを見ることができる。
そんな、山とともに暮らし、対話しながら伝えられてきた技を、現在に、後世に引き継いでいこうという思いも、森の器には込められている。
山が、少しずつその姿を変えながらも時代を超えてそこにあるように、代々引き継がれていく人の知恵や技。そんなところに、匹見の魅力がやっぱりある。
写真:「木材」が、みるみる「器」になっていく
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年12月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
トチもち - 「匹見再発見」 57

山菜採り、きのこ狩り、山や川での猟(漁)、ハチミツ採り、さらに「衣」や「住」にもさまざまな木や草が素材として利用されている。先人から受け継がれた「技術」に各人の「経験」や「知恵」が加わり、山暮らしならではの豊かな生活が営まれてきた。
なかでも、木の実を採集し、加工や貯蔵をしていた痕跡は縄文遺跡からもみつかっており、長い利用の歴史を刻んでいる。とくに、トチノキの実のような強いアクのあるものを食用にする技術は、積み重ねられた知恵と根気のたまものだ。
トチの実は、ほんの少し口に入れただけでも舌がしびれるようなアクの強さだが、クマやイノシシは好んで食べるらしい。栃もちを作る人たちは「クマと競争で」この実を拾うとのこと。
拾ってきた実は水に浸して虫出しをし、ひと月ほどの間天日干しされる。その後、トチヘシという木製の道具を使って堅い皮をむき、生木の灰に熱湯をかけたものにつける。5日間、1日に一回はかきまぜて渋皮をとる。
さらに5日間、今度は谷川などで水にさらし、やはり毎日かきまぜる。これでもアクがぬけなければ、灰での処理と水さらしを繰り返す。
これを蒸しあがったもち米の上にのせて蒸らした後、もちをつく。少々苦味のあるもちを、ぜんざいなどにして食べるのはこたえられない。
文化遺産に登録してもいいくらいの「技術」であり、「味」だと思う。
写真:トチの実
(文・写真 /田代信行)
この記事は、2009年10月18日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
わら蛇神事 - 「匹見再発見」 56
神社・寺院などの信仰の建築物には、よく龍や蛇を装飾化したものを見かける。沼などに棲み、しかもたけだけしく飛行するという想像上の龍は信仰の対象として納得できるが、グロテスクな蛇についてはふにおちない。
しかし、蛇は縄文の古い時代から信仰の対象物であったらしい。脱皮を繰り返す様から不死の動物としてとらえられたり、またクネクネと歩む姿が水流に似ていることから、水神の化身ともとらえられたりした。水といえば、水田耕作にとっては不可欠である一方で、洪水をひきおこす恐ろしい存在でもある。後者の事例は、さしずめ出雲神話の八岐大蛇といったところであろうか。
匹見町内石の田原大元神社では、長さ約6m余りの稲わらで蛇、あるいは龍形に模したものを作り、背後の古椿に巻きつける「わら蛇神事」という祭りが伝えられている。もとは八朔(はっさく)に行われていたものだが、今では新暦の9月2日に行われている。
八朔といえば穂掛け行事、あるいは二百十日という台風シーズンを迎えて、諸方では風祭りが行われていることなどからみて、豊作頼みの感が強い。こういった「水」との関係から、龍蛇(りゅうだ)形のものを祭り上げて柔和させて災害をさけ、豊穣を祈ったのだろう。
こうした意義ある神事も、以前は田原地区の3世帯に、本地から他方に転出した1世帯が加わった計4世帯だけで守られ、その後、一世帯が減ってほそぼそと伝承していた。
しかし数年前からは、津和野町日原から古く伝承されたという故事にちなみ、日原郷土研究会の協力を得て伝承されていると聞き安堵(あんど)する。
祖先たちが残してくれた、この貴重な文化遺産が、いつまでも続かんことを祈りたいものである。
写真:ご神木に巻きつけられたわら蛇
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年10月4日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
天狗 - 「匹見再発見」 54
匹見には天狗瀧(てんぐだき)、また「堀越天狗」といった天狗にちなむ地名や、天狗の休み場だという「天狗松」、あるいは「グイン松」といった巨木・奇形な樹木などが見られる。
天狗は顔は赤くて高い鼻をもち、背に翼があって飛行自在で、手には羽団扇(はうちわ)をもつ。服装は山伏姿が一般的だが、中には僧侶の場合もあるといわれ、深山の岩場または松の木などの樹上にいるという想像上の怪物だ。
「天狗風」「天狗礫(つぶて)」「釣天狗」など、諺(ことわざ)ではマイナスイメージが強いが、これは魔界に棲むということから生じたものであろう。
しかし山郷の人たちにとって、かつては山神に近い存在であったらしく、例えば三葛には大神ヶ嶽(あるいは立岩ともいう)から申し降ろしたという「狗印社」という祠(ほこら)がある。
こうした天狗の原型は、どうやら山伏の姿やその行動にあるようだ。つまり山界の岩場を登ったり火の中を歩いたり、刀(は)渡りをしたりと超自然的なことは、まさしく天狗像そのもといってよいだろう。古書や伝承には「山伏が天狗になった」とか、その逆の記述もある。いずれにしても日本固有の山岳宗教や、また修験道との密接なかかわりの中から登場したものであろう。
切り立った岩場などを当地では、タキとかダケとかいっているが、古くはそのような場所は地方山伏の修業場であったらしく、それが天狗伝説を生むきっかけになった。原初的には、そういった岩山や巨木などには神がこもるといった、自然崇拝から発したものであったことも頭においておかなければならない。
写真:そびえ立つ立岩。天狗伝説が残る
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年9月6日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
宮本常一先生 - 「匹見再発見」 52

ただその後、先生が1939年11月に匹見を訪れ、その時に得た資料を基にした出版が残されていることを知った。それは『宮本常一著作集』(全50巻)のうちの『中国山地民俗採訪録』(第23巻)と『村里を行く』(第25巻)だ。
前巻には「島根県美濃郡上村(匹見町)三葛」という項目で、20ページにわたって主に齋藤修一氏(川森家)から聞き書きしたものが載り、今となっては得ることができない貴重な民俗誌が事細かく記されている。
例えば私の母の事で恐縮だが、実は地区の人たちが名前を「益子」と呼んでいたので、それが名前だと思い続けていた。しかし戸籍では「スエ」とあるので母に聞くと、益子は結婚時につけられたもので、したがって以降はそのように呼ばれていたのだという。
このようなことは匹見では今も見られる一例であるが、そういった珍しい風習がどのように行われていたかなども記されていて興味深い。ただ付録として道川臼木谷の秀浦氏からも記録をとったらしく、中には混同しているものが二、三点見られる事は残念。
後巻のものは6ページをさいて、広島の横川から広見を経て三葛、そこで石工、木材業などに携わる10あまりの人たちと宿泊をともにした様子を「三葛の宿」と項題してエッセー風にまとめられている。
それは1200軒を超える民家などに泊まりながら民俗学をフィールドワークとした先生の姿勢が読み取られ、前巻とは趣きを異にした別の魅力が心に迫ってくる。
匹見にかかわられた人たちが残された功績をきちんと押さえることも再発見につながる。それだけにあの時、先生にあいさつをしながら名刺を交わしたのみだけだったことが、今となっては悔やまれてならない。
写真:宮本常一氏が泊まった益田市匹見町三葛の民家(当時は宿)
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年7月26日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。
「山葵天狗社例祭」の季節です
毎年恒例、6月の第1日曜開催の「山葵天狗社例祭」が、今年も6月7日にとり行われます。
三葛・笹山地区のワサビ農家が中心となり、大神ヶ岳中腹にまつられた山葵天狗社(やまあおいてんぐしゃ)に、豊作と安全を祈ります。
お社前での祭祀の後は、麓の夢ファクトリーみささにて、神楽などのアトラクションが行われるとのこと。
ぜひ、お出かけください。
日時:平成21年6月7日(日)
午前8時30分より 山葵天狗社(大神ヶ岳登山道途中)にて祭祀
午前11時ころより 夢ファクトリーみささにて神楽等アトラクション、地元物産の販売、食事
匹見再発見「山葵と天狗」
http://manabiya.blog76.fc2.com/blog-date-20080608.html
匹見再発見「大神ヶ岳」
http://manabiya.blog76.fc2.com/blog-date-20080204.html
六十六部供養塔 - 「匹見再発見」 43

現存する十四番の東光山和田寺(浄土宗)は仮堂となっているが、その境内に六十六部の供養塔といわれる石造の阿弥陀(あみだ)如来像がある。六十六部とは、六十六国を廻国して巡礼した聖(ひじり)のことをさすが、略してただ六部という場合もある。
石造の如来像は当地では珍しく、以前から気にしていた。ただ、坐像の蓮華(れんげ)座の中央にやや太字で六十六部供養と陰彫された以外、コケが繁茂するなど、詳細は分からなかった。
そこで今季、コケを取り除くなど清浄してみた。すると、蓮華座の右側面に「宝永七年(1710)寅三月三日」とある。また左側面には「施主・教水」という刻銘が現れた。
六十六部廻国については、正徳年間以前、出雲国では杵築大社(出雲大社)、石見国では大田南八幡宮に代表される国分寺、大麻山権現、柿本神社、隠岐では焼火権現というように5か所程度と少なかった(鳥谷芳雄『島根における近世六十六部廻国』)。しかもそれらはいずれも海岸端に限られていたようだ。
18世紀後半になると倍増していくものの、石見では三十三札所と重なりが見られるといわれ、それでも和田寺のように山間辺地で発見されたことは初めてで、極めて貴重だ。
このことは本寺が、浄土宗の三祖といわれている記主(きしゅ)禅師が嘉禎年間(1235‐37)に開基したといわれる名刹(めいさつ)だったことから、納経地として足を向かわせたという背景があったのかもしれない。
写真:和田寺の「阿弥陀如来座像」
(文・写真 /渡辺友千代)
この記事は、2009年2月22日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。