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2009.11.23

割元庄屋美濃地家(下) - 「匹見再発見」 59

土間から座敷方向を見る 長屋門をくぐるとガッショウ(合掌)造りという母屋が眼前にどっしりと構える。屋根には棟を押さえるホテが11本あり、通常の民家より多い。また70~80cmの厚い茅ぶきを目の当たりにすると、まさしく当家が割元庄屋であったことをうかがわせてくれる。
 左手の大戸から入ると25坪(約82.6平方m)の土間。吹き抜けになっている屋根裏を見上げると、梁、桁が縦横数段に組み上げられ、中でもウシビキ梁などは直径3尺(約1m)もあり、それを支える大黒柱も直径1尺1寸(約30cm)のヒノキで、何から何まで巨大だ。
 土間から上間方向に目をやると、前側はオモテ、ナカノシマ、ザシキとつづき、そこはハレの間取りである。「ハレ」と「ケ」という言い方があるが、「ハレ」とは特別な祭り、冠婚葬祭といった非日常的なことをいい、そのときに使われた間のこと。
 つまり、板戸で仕切られた土間に続くオモテは神棚が設けられた客間。ナカノマは、上客(近世期には代官などの官吏)が正式な入口である式台から上がってあいさつ、面談する間であり、最上の間がザシキである。
 したがって、両間のあいだの鴨居には欄間が施されたり、ザシキには天袋や違い棚の床、附書院はもちろん、飾り金具も見られるなど、高い技術の結晶されている。
 そして「ケ」というのは、住居ではカッテ、イマ、ネマとかいった普段・日常的に使う間取りをいい、それらは裏側や下手側に設けられているのが普通だった。
 当家ではイマ、オク、サキノマなどがそれに当たり、大部分を壁で仕切られた前側のハレの各間とは異なり、簡潔で質素な造りになっている。一部異なった部分もみられるが、こうしたハレの間が3間、ケの間が3間、合わせて6間取りというのは普通の民家では見ることはできない。当家が士分級の庄屋であったことが間取りからもかいま見える。
 以上、機能面から見てきたが、当家は美観的意匠にも優れている。私は特に下手の妻側から見るのが好きだ。

 

写真:美濃地屋敷の土間から座敷方向を見る

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2009年11月22 日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。


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2009.11.09

割元庄屋美濃地家(上) - 「匹見再発見」 58

美濃地屋敷  匹見町で紹介しておかなければならないものに道川の旧割元庄屋美濃地屋敷がある。オープン(2005年4月)から数年間はは約1万人の来場者があったが、現在は7,8千人前後と減少している。それでも表、裏などの匹見峡、やすらぎの湯に次ぐ匹見の観光スポットだ。
 地元の民具を展示する民具資料倉、休憩室に改造した牛馬舎と養蚕室以外の母屋や、米倉、勘場(かんば)などといった大部分は、154年前に改築された当時のままで、貴重な建築物である。
 庄屋とは、江戸時代に数村の納税や治安、その他の事務を取り仕切った村の長のことで、身分はあくまでも農民。
 ただ一口に庄屋といっても、流れ頂戴(ちょうだい)、独札、名披露(なひろう)、苗字御免(みょうじごめん)といった格式差がある。
 当家は江戸後期には帯刀(刀を携えること)はもちろん、苗字御免を仰(おお)せ付かり、数家の庄屋を配下におく割元庄屋となり、末期には匹見組庄屋の上席を務める一方、,郷土格という士分(武士)級の待遇を与えられた。
  先祖は出雲国尼子氏に仕えていたといわれ、戦国期に益田の美濃地に移り住んで、その任地をもって苗字としたものという。江戸初期には津茂銅山の支配人として数代、そして道川に来地したのは藤井氏の踏鞴(たたら)の支配人として10代の久忠の時だったらしい。その後藤井氏が衰退していく中で、逆に上・下道川両村の有望家へと成長していった。
 山をひかえた背戸側には高く積まれた石垣が築かれ、南東向きの屋敷取りも申し分ない。もとは三方には溝が流れていて、板・土塀、正面側には勘場(かんば)、米倉などが敷地内を仕切るように建ち並んで長屋門を形成している。くに彫刻が施されて壮麗(そうれい)な門に、まずは圧倒されるのである。
 次回は、当家の建物内部の様子について紹介する。

 

写真:南側から望んだ美濃地屋敷の全景

(文・写真 /渡辺友千代)


この記事は、2009年11月8日付の山陰中央新報掲載分を転載したものです。

 


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